映画『春の雪』 ロケ地・披雲閣 [香川]
高松城跡天守台見学会が終わり玉藻公園内の披雲閣(ひうんかく)と月見櫓、艮櫓(うしとらやぐら)の内部も特別公開だと云うことなので見に行く事にしよう。
『桜御門跡』
『桜御門』は昭和20年の高松空襲で焼失してしまっています。
焼け跡が残る桜御門跡の石垣
石垣はその時の火事で焼けた跡が残っています。
『披雲閣』正面玄関
現在の建物は大正6年に建築されたもので、床面積は1,887㎡(約571坪)と決して小さなものではありません。
西側には公的な部屋が配置され、玄関から奥に行くにしたがって私的な部屋になっています。
この2階部分は『波の間』で昭和天皇・皇后両陛下がお泊りになられた部屋
一番北奥の部屋は槙の間でその部分だけが2階建てです。
その2階は、昭和天皇・皇后両陛下が2度ご宿泊になられた部屋で『波の間』と呼ばれています。
二間続きの『波の間』の西側
披雲閣は映画『春の雪』(主演:妻夫木聡,竹内結子)のロケで使用されました
映画の中では竹内結子が演じている伯爵家・綾倉家として出てきます。
そして両陛下がご宿泊になられた2階の『波の間』は、綾倉聡子(竹内結子)の部屋として撮影されています。
http://www.harunoyuki.jp/ 映画『春の雪』の公式HP
和室2間続きの部屋になっており、障子を隔てて左右に廊下があり、どちら側も天井から廊下の床いっぱいまで窓ガラスになっています。
『波の間』に座ると月見櫓が美しく見える
北側の窓は内苑越しの月見櫓、南側の窓は中庭が一望できる素晴らしい部屋です。
『波の間』から月見櫓と『内苑御庭』を望む
『披雲閣』の北側は内苑御庭と呼ばれている枯山水の庭です。
内苑御庭の中に石の橋が架かっていますが、これが他に例が無いといわれている巨大な『庵治石』から切り出して造った橋です。
欄干も橋も繋ぎの無い一体物なのです。
その庭の北の端に月見櫓と水手御門があります。
月見櫓から『波の間』を見る
月見櫓は三層三階になっており、出入りする船を監視する役割を持つと共に藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので『着見櫓』とも云われています。
『水手門』を特別に開門していた
丑寅の方角は北東を指しますが、艮櫓(うしとらやぐら)は南東の隅にあります。
『艮櫓』
なぜか?
艮櫓内部
元の艮櫓跡は現在の県民ホールの敷地内に残っています。
その頃にまた出かけて来るとしますか・・・。
高松城跡天守台見学会 [香川]
~解体中の石垣を見よう~というイベントに参加しました。
高松城は玉藻城とも呼ばれています。
万葉集で柿本人麻(かきのもとひとまろ)が讃岐の国の枕言葉に『玉藻よし』と詠んだことに因んでいます。
その昔、この辺りの海辺が玉藻の浦と呼ばれていたからだと云われています。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)は翌年から港町であった野原の庄・玉藻の浦に築城を始め数年の歳月を費やし平城(水城)を完成させ高松城としました。
月見櫓三階から撮影 (すぐ前が岡山・宇野港へのフェリー乗り場)
沖に浮かぶ島が桃太郎で有名な『鬼が島』です。
すぐ前が瀬戸内海なので水門を造り海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は日本の三大水城のひとつと云われています。
後の2つは今治城(愛媛県)と中津城(大分県)です。
その後4代54年間は生駒氏の治世が続きましたが、生駒騒動と云われるお家騒動により出羽の国に移されました。
このあと寛永19年(1642年)に徳川家康の孫で、水戸黄門として有名な徳川光圀の兄の松平頼重が入城しました。
松平頼重以降、11代228年間に亘って居城として統治し高松は栄えました。
明治17年、瀬戸内海に三層五階の天守閣がその威容を誇っていましたが老朽化により取り壊されました。
現在高松城跡は築城から約420年が経過して石材の劣化や度重なる地震によって石垣の各所で『ハラミ・ズレ・ヌケ』といった現象があり石垣が危険な状態だという事で調査した結果、天守台石垣がもっとも危険であることが確認されたそうです。
で、今回の高松市教育委員会主催の見学会が開催される事になって参加してきました。
手前の大きな石が石垣の外側、奥の小さな石の山が内部の栗石
天守台の石垣の高さは13m、周りは140mで約9,000個の大きな石で組まれておりその内部は小さな栗石で支え、そこに盛り土をしているそうだ。
大きな石にはガムテープを貼りナンバーを書き込んでいる。
手作業で盛り土と栗石を取り除き、大きな石にナンバーを書き込んでいる
この辺りの盛り土からは500年ほど前の陶器や人骨が出土しているそうで、城を築く時に周辺から集めてきた土に混じって共に埋め込まれたのだろうと説明があった。
当時、周辺には墓地もたくさんあったようだ。
ナンバーを書き込んだ大きな石はワイヤーを架けてクレーンで移動
天守台への石段にもナンバーが振られている
今回初めて生駒家の家紋が入った石材が見つかったそうで天守台南西隅の上から6石目の石材に刻印されていたらしい。
指で指している刻印が生駒家の家紋です
お堀の水は海水でちぬ(黒鯛)や真鯛、カワハギなどが泳いでいる
真ん中の建物はサンポート高松のシンボルタワー、右はホテルクレメント高松
石垣の向こうに見える建物は香川県立県民ホール
関東で春一番が吹いたそうだが高松も風が強い一日でした。
見学会の後、城内には色々な建物もあり引き続き見学する事に・・・。
To Be Continued…
蝋梅の並木道 [香川]
高松市内の南に高松空港があるのですがその周りは広々とした空港公園になっています。
空港の南側の丘には滑走路が一望できる『さぬきこどもの国』があり、旅客機の発着陸を親子で楽しみながら様々な体験学習ができる県の施設が整備されています。
空港の北側は広大な空港公園になっておりその東に隣接して香川県園芸総合センターがあります。
園芸センターは無料で楽しめる穴場スポット。
敷地内には温室棟や梅林があるので梅の花を見に行く事にしました。
入口近くには大きな盆梅が展示されており、綺麗に咲いています。
温室棟内は温かく、シクラメンやシンビジュームなど色とりどりの花が咲き乱れていました。
残念ながら梅は品種によって開花時期が違っており部分的には五分咲きの木もありましたがほとんどが一分咲き程度でした。
梅林ではおじさんがキャンバスを広げて油絵を描いていました。
紅梅は開花時期が早いようでたくさんの花が咲いて梅の香りが漂っています。
梅林を抜けて坂を登るとそこは蝋梅の並木道になっています。
両側に200本ほどの黄色い蝋梅が八分咲きになっていてとてもいい香りが漂っていました。
蝋梅の並木道からは高松空港の建物がよく見えます。
青空に黄色い蝋梅はよく映えてとても綺麗でした。
三月に入ると様々な種類の梅も見頃になりそうなので、もう一度訪れなくては・・・。
屋島太三郎狸 [香川]
日本三名狸って皆さんご存知でしょうか?
佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸、そして屋島の太三郎狸です。
スタジオジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」のモデルにもなりました。
太三郎狸は四国狸の総大将とあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であったといわれています。
朱色の鳥居の奥に蓑山大明神のお社が。
屋島山上の北嶺に天平勝宝年間、鑑真和尚による屋島寺創建の地と伝えられる千間堂跡がありまして、今もその土壇や礎石がそのまま残っています。
その後1,100年程前に北嶺から南嶺の今の場所に84番札所・屋島寺を移したのは弘法大使だと云われています。
『その昔、目の不自由な鑑真和尚が屋島山上の北嶺にお寺を建てようと霧深い屋島の山上に来た時は雨が降っており道に迷われ難儀をしていたところ、蓑笠を着た老人に山上まで案内されて、そしてお寺を建立した。
のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと云われています。』
太三郎狸は屋島寺本尊十一面千手観音の御申狸(おんもうしたぬき)、又数多くの善行を積んだ為、土地の地主の神『蓑山大明神』として本堂の横に大切に祭られています。
屋島寺本堂(奥)と蓑山大明神(手前)
屋島寺の宝物館に入館すると見えるのですが、書院の裏庭に白い凝灰岩が露出していて、四季を通じてさながら雪が降ったように見えるので雪の庭と呼ばれている庭があります。
屋島寺の住職が代わるたびに太三郎狸はその雪の庭で源平合戦を演じて住職をもてなしたそうです。
左:太三郎狸と子狸 右:太三郎狸の奥さんと子狸
屋島太三郎狸は一夫一婦の契りも固く家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多いそうですよ。
第62回香川丸亀ハーフマラソンを走る [香川]
天気予報の予測は雪だったが2月3日の朝、高松は小雨が降っていた。
山の上のほうは白くなっていたが市内は雪が無く8時30分頃無事丸亀競技場に着く。
駐車場は花崗土(赤土)の為ぬかるんで酷い状態になっていたが何とか平池の北側の土手近くに駐車できた。
土手へ上がる階段の近くだった為ぬかるんだ駐車場内を歩かずに土手へ上がり競技場へ移動した。
すでに多くの参加者が来ており、小雨が降っていたため屋根がある競技場内は人でいっぱいだった。
トラック内の芝生は雪をかぶって白くなっている。
まずは受付でゼッケンを貰いウエアーにセットして、上からスタジアムコートを羽織って1階正面玄関前広場へ行く。
ここは『にぎやか村』というネーミングの屋台村が出来ており焼き鳥やうどん屋さんが並んでいる。
まずはうどん屋さんへ行く。
大きな釜でうどんを湯がいていたので、かま玉を注文して受付で貰った割引券を渡して250円払うと割り箸と生卵を1個渡された。
暫くすると釜から上げたうどんをどんぶりに入れて醤油とねぎをかけて『自分でここに玉子を割ってかき混ぜて食べてください~!』渡され食べる。
デポジット制を採っているのでどんぶりを返却コーナーへ返すと100円が戻ってきた。
150円のかま玉うどん、美味しかったです。
2階ではサトウ製薬のサロメチールのブースがあり皆スタート前の足のケアを熱心に行なっていた。
10時35分スタートなので、20分前に上着を脱ぎ手荷物預所へ預けてスタートラインに並ぶが気温が2度と寒く、体が冷えてくる。
3,000人近いランナーの為にゼッケン番号によってスタートの並ぶ順番が決められている。
ゼッケン番号が3400番台だったので号砲と同時にスタートしたが、実際にスタートラインを切ったのは2分15秒後だった。
今回で2回目の参加なので、リラックスして走り出すが、右膝裏が痛み出しスピードが上がらず、最後まで気温も体温もあまり上がらず寒いレースだった。
完走はしたが昨年より約3分遅れの記録になってしまった。
瀬戸大橋の上を走ろう! [香川]
瀬戸大橋が開通して今年の4月で満20年になります。
香川県と岡山県は合同で 『瀬戸大橋開通20周年記念事業』を4月から10月にかけて行なうそうです。
まず第1弾として平成20年4月13日の午前8時から午後1時まで児島ICから坂出ICまでの橋脚部を全面通行止めにして 「健康マラソン、健康ジョギング・健康ウォーク」 を行なうことになっています。
20年前、開通前に同じようなイベントを行ないましたが、今回は走っている車を全面通行止めにして橋上でイベントを行なうという大胆な構想です。
瀬戸大橋を車で走った方なら解かると思いますが、まるで外国の映画に出てくるような巨大なつり橋の上をジョギングしたり歩いたり出来るのですから、これは何としてでも申し込むしかありません。
というわけで、15kmの健康マラソンに申込しました!
(募集定員が5,000人なので、それを越えると抽選になるから、走れるとは限らない・・・)
参加費5,000円はちょっと高いけど、まあ仕方が無いですよね。
ちなみに東京マラソンは25,000人募集で参加費10,000円。
http://www.seto-ohashi20.jtbcom.co.jp/
香川県側の余島からスタートする「健康マラソン」の招待選手は、谷川真理さんが参加で岡山県側の鷲羽山からスタートする「健康ジョギング」の招待選手は、有森裕子さん、山口衛里さんをはじめ天満屋女子陸上部が参加するそうです。
20年に1度の全面通行止めのイベント、いや今後はもう無いかも知れません!?
さあ、皆さんも一緒に瀬戸大橋の橋上を楽しみませんか!!
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 別れても末に逢はむとぞ思ふ [香川]
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
別れても末に逢はむとぞ思ふ
-崇徳院-
昨年6月に崇徳上皇ゆかりの地を歩いてきたので紹介しましょう。
香川県の高松市と坂出市に境界線の所に五色台があります。
五色台には黒峰、黄峰、紅峰、白峰、青峰がありそれを総称して五色台と呼びます。
その白峰の断崖の端に白峰御陵があり、崇徳院が眠っていらっしゃいます。
小倉百人一首にある崇徳院が読んだ歌
『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の別れても末に逢はむとぞ思ふ』
は昔から恋人たちに好かれた歌としてかなり有名です。
崇徳院は不幸な生い立ちで、鳥羽上皇が崩御した保元元年7月に朝廷内は実弟の後白川天皇に従う者と崇徳院に同情する者とに真っ二つ割れて争いになり、7月12日の未明に後白川天皇側が卑劣な夜襲をかけて3時間の戦いで崇徳院側は壊滅した。これが保元の乱です。
一旦仁和寺に幽閉され、讃岐に流刑にされた。
その後崇徳院は三年を費やし恭順の意を表して、完成した五つの写本を鳥羽上皇の御廟所に収めてほしいと後白河天皇に送ったが「呪詛が込められているのではないか」と疑って写本を送り返してきた。
三年の苦労を無にされた崇徳院は憤怒の形相で激しく怒った。
こちらが罪を悔いているのに天皇がどこまでも許してくれないのであれば、これは今生の恨みにあらず!後世までの敵である!!と天に叫ぶと自分の舌を噛み切って、その血で写本した経の1本ごとに
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」
と誓文を書き込み冥界の王に復讐成就を祈願した。
その後は爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったと云われた。
長寛2年8月26日(1164年9月14日)に46歳の生涯を終えた。
ここに日本史上、もっとも恐れられた怨霊が誕生したのである。
亡骸をどうするか朝廷に問い合わせている間、崇徳院は八十場の冷たい泉の底に二十日間にわたって沈められたと云う。
ここで崇徳院が夜も昼も二十日間にわたって泉の底から空を眺めていた八十場の泉
その二十日間の間、近くの森から毎夜神光が光った為、二条天皇の宣旨で白峰宮社殿が建てられ崇徳上皇が祭神になっている。また別名『明の宮』(あかりのみや)とも呼ばれています。
白峰宮(明の宮)
朝廷から白峰に亡骸を埋葬するように命令が届き、八十場の泉から引き上げられた崇徳院を棺に納め白峰に運ぶ途中、登山口にある高屋神社の近くで休憩をしていた所、亡骸を納めていた棺からおびただしい血が台座にしていた石に滴ったという。
御棺台石と書かれた石柱
石囲いに中に台石が。
崇徳院の血が滴ったという御棺を置いた台石
人々は崇徳院の執念だと恐れおののき、血が滴って汚れた石を高屋神社に奉納して崇徳院の成仏を祈ったので、高屋神社は『血の宮』とも呼ばれている。
その後、稚児ガ嶽で荼毘にふされ白峰御陵に埋葬されたという。
荼毘にふされた際に煙が漂っていた所に建立されたのが『煙の宮』と呼ばれている青海神社だ。
『思いやれ 都ははるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを』
これは崇徳院の辞世の歌です。
崇徳院が亡くなられて間もなく、はるばるこの地松山の津に杖を引きその亡魂をお慰め申し上げたのが、今に歌聖とうたわれる 西行法師円位である。
白峰寺にある片膝を立てた姿の西行法師の石像
仁安3年(1168)に白峯御陵に詣でた西行法師は、御陵の前に座ってお経を繰り返し読んで
『よしや君 昔の玉の床とても,かからん後は何にかはせん』
の歌を奉ったと云います。
この歌は西行が崇徳院のご霊前に捧げた鎮魂絶唱の歌として知られています。
崇徳院が船で讃岐の国に着いた『松山の津』の石碑
哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになり 、後の明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳院の霊を京都へ帰還させて白峰神宮を創建したのである。
今でも宮内庁の職員が毎年訪れているそうだ。
四国八十八ケ所・結願の寺 [香川]
数年前から香川、徳島、高知、愛媛の四国四県が共同で『四国八十八ケ所参り』を世界遺産として登録しようと活動している。
徳島県の1番札所・霊山寺から徒歩で高知、愛媛と時計回りに廻り香川県の88番結願所・大窪寺まで1,280kmあります。
通しで歩くと約1ヶ月掛かると云われ,最近徒歩で八十八ケ所を廻る人が増えてきており、色々な所で白装束の歩き遍路を見かけるようになりました。
『お遍路さん』とか『お四国さん』と親しみを込めて呼び《お接待》をされる地元の方も沢山いらっしゃいます。
遍路をしている人に対して地元の人々が色々な食べ物やお賽銭を差しあげます。
これが《お接待》です。
お接待はお遍路さんへの施しと同時に、自分の代わりに遍路に行ってもらうという寄託や代参の意味があるからです。
願をかけて1番札所から廻って、その願いが結ぶ場所、それが88番結願所(けちがんしょ)・大窪寺です。
大窪寺山門前石段と結願所石標
金刀比羅宮へ初詣 [香川]
2008年1月4日朝、快晴だったので年末に父親から『 金刀比羅宮の黄色のお守りを買ってきて欲しい』といわれていたので出かける事にした。
お正月で 金刀比羅宮周辺はかなり渋滞するだろうと車に折りたたみ自転車を積み込んで出発。
スーパーマルナカ琴平店の駐車場に車を停めて店内でペットボトルの水を買って自転車で参道まで走る。
参道までの道は県外ナンバーの車で溢れており予想通り大渋滞を起こしていたが自転車なので渋滞を横目に参道近くの公園へまで行く。
自転車を置いて早速 金刀比羅宮の表参道を歩き出す。
右手に備前焼の狛犬があり一の坂鳥居をくぐって石段をどんどんと登っていくと大きな大門が見えてくる。
五剣山・八栗寺の特別開扉に行く [香川]
2008年1月1日から3日まで、四国霊場85番札所の八栗寺のご本尊・聖観世音菩薩立像と多宝塔の特別開扉があるので、初詣を兼ねてお参りする事にした。
八栗ケーブルカーの駅前は駐車場になっており数年前には700円の駐車料金を払った記憶があるが今日は無料だった。
カーブルカーは片道550円、往復で900円であるがすぐ横に登山道があり20分ほど登ると八栗寺まで行けるので歩く事にする。